身体-反射-認知-思考
我々は考えることに慣れすぎているので、考えて行動しているような錯覚に陥る。一方、条件反射という概念も知っており、意識と別の回路で何らなの身体活動が起こることも分かっている。条件反射として習うのはパブロフの犬的な現象や梅干しをみると唾液がでてくるようなものだと思っている。そういう反応は、普通の生活で使う機能とは別物だと感じている。普通の生活や仕事、コミュケーションで使う機能は、条件反射ではなく思考の産物であると思っているのではないだろうか。「反射は意志で制御できないが、思考は意志で制御できる」なんとなくそう感じているだろう。しかし、我々は、反射と思考の境界、何が制御できなくて何なら制御できるのかの境界線を、真剣に意識して生活していないのではないか。無条件反射、学習された反射、習慣化された行動、思考により変更可能な活動と異なる種類の脳活動が常に混ざり合い、お互いフィードバック仕合ながら活動しているはずだ。ある種の行動が、反射レベルなのか思考の産物か区別しないまま生活しているが、何かがうまく行かないとき冷静に捉える必要がある。どうしてもうまくいかないこと、つい反復してしまうこと、気をつけていても変えられないことは、意志より深いレベル、反射か強く習慣化された機能によって起こっているはずだ。どうして変えられないのだろうという疑問をもつのは当然であるが、それは生物学的機能をなめていると言える。生物学的に深く構築されたネットワークがそう簡単に変更できるはずはないのである。反射レベルで起きていることを思考で制御しようというのは、運動神経が鈍い人が、やり方をしっかり理解したらできなかったことができるということと同じである。運動機能であれば、そんなことができるはずはないことを誰もが共有しているので、運動部に入部すると半年一年と基礎的な訓練をひたすら反復させられる。ある種の行動が反射レベルでできなければ競技には使い物にならないからだ。野球でいえばボールが飛んできて、考えて打つでは間に合わない。認知-反射であって、認知-思考-反射ではないのである。後者では手遅れなのだ。ここで認知と思考も区別しておく必要がある。認知は物事を解釈なく捉えることである。その時の身体機能、反射機能によってすでに決定されていて、その時点で可能なレベルでしか認知できない。それが思考になると、創造や解釈が混ざるので複雑なことが起きる。複雑な割に、瞬間的な出来事には役に立たない、あるいはマイナスになる。運動機能ならばこういう話は当然のこととして理解できるだろう。特に運動経験、苦労して技術を身につけた経験がある人なら「当たり前だ」と理解できるはずだ。前回書いたように、運動、勉強なら当たり前のことが「心、気持ち」の問題になると途端に怪しげな領域にはいってしまう。心の機能は運動、勉強のように客観的に測定することができないので、「そんなこと当たり前だろう」「そんなことが分からないはずがない」の世界を脱出することが難しい。
心の機能も運動、勉強の機能も同じ脳神経細胞と神経ネットワークをつかって制御されているので、その変更には同じような苦労が伴うはずだ。今できないことは、明日もできない、何もしなければその後もできない。当然のことである。何もしていないのに、急に競技がうまくなったり、外国語が話せるようになることがないのと同じである。できない事ができるようになるためには、正しい反復訓練が必要となる。反復訓練をして、反射機能を高めてこそ、苦手な出来事に対応できるようになると私は思う。
運動、勉強、心の機能すべてもともとの身体機能、無条件反射、学習された反射、習慣の産物である。身体機能、すでに組み込まれた反射機能の変更はそれほど簡単なことではない。しかし、その後の学習による反射、習慣による機能は、付加していくことができる。心の機能による問題でうまくいっていない人は、自分が悪い、間違った状態であると感じることが多い。間違ったものを正す、悪い物を排除するという考えにとらわれやすい。本人がそう感じるのは無理もないことであるが、周りで関わる人もそう思っていることが多いのでやっかいだ。重要なことはよりよい反射機能を身につけることだ。七つの習慣とか、脳に悪い習慣とか書物がでているが、習慣によって何かを変えるという発想は重要だと思う。習慣を変えるというのは、身体レベルの反射機能をバージョンアップするということなのだ。