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良い我慢と悪い我慢

 昭和の風習では、根性、辛抱、我慢は人間を成長させるために大変重要なことであった。平成初期の映画で、「シコふんじゃった」という相撲映画がある。その中で、すり足稽古を延々とやるときに「辛抱、我慢」と繰り返しながらやっているシーンを覚えている。調べて見ると辛抱と我慢はすでに違う概念であり、辛抱は成長のため、我慢はよくないこと、という風に書かれていた。しかし、デジタル大辞泉で調べたら我慢(辛抱)のようにほぼ同義語のように書かれていたので、ここでは、そこは厳密に分けない概念として使用する。 昭和100年となったが、私が子供の頃は、明治100年、「明治は遠くなりにけり」と言われており、明治時代なんて大昔というイメージだった。なので、今の若い人からみれば、昭和って昭和時代と言われるくらい昔になってしまったんだなと思う。昭和レトロブームとはいっても、昭和っぽい文化は今では馬鹿にされるか嫌悪される対象だろう。我慢しろとかいったらハラスメントだといわれそうだ。話がそれてしまったが、私が言いたいことは、我慢には「良い我慢」と「悪い我慢」があると言うことである。我慢とは自分の心身に負荷をかけるという意味である。前回書いたアロスタティック負荷状態である。それはすべてマイナスかといえばどうではない。今はあまり言われないが、「修行」という行為があるが、それは体に負荷をかけることを意味する。だいたい宗教的な行為において使われることだが、わざわざ滝に打たれたり、火を焚いた近くで読経したり、苦しいことをあえてやっている。それは大変な我慢であるが、なんでそれは良いことなのだろう。それは「自ら望んで、自分を高める(と信じて)」ために行うことだからである。一方、何のためか分からないことをあるいは明らかに自分にとって悪い事を無理強いされるという我慢もある。自ら望んで行うことを「良い我慢」、望まぬ事を強いられて行うことを「悪い我慢」と言えるだろう。良い我慢は自分の可能性を拡張し、次なる困難によりスムーズに対応する力を高めることになる。悪い我慢は自分の自尊心を傷つけ、対処能力をそこなっていくだろう。なので、我慢を感じた時、それが良い我慢か悪い我慢かを見極め、出来ることなら良い我慢に切り替えていければ、その負荷は脳機能の拡張につながっていくだろう。あまりにも理不尽でどう考えてもマイナスにしかならない我慢か...

アロスタシスとホメオスタシス

 心身医学を学ぶときに、最も基礎的な概念として、キャノンのストレス学説、ホメオスタシスを学んだ。心身医学の目標は、ホメオスタシスの改善であると思っていた。キャノンのホメオスタシス理論は1920年頃に提唱された学説であり、長い間ストレスを考える上で中心的な役割をしてきた。私のホームページの心身医学の解説の中にもホメオスタシスのことしか記載していない。ホメオスタシスというのは、ざっくりいうと、生体が内的均衡をたもつために、常に微調整し続けているというものである(血圧、体温、発汗など)。アロスタシス理論は1980年代に提唱されたようだが、私は全くしらなかった。私が心身医学を学び始めたときにはすでに提唱されていたわけだが、教えてもらった覚えはない。私がその理論を知ったのは半年くらい前のことで、それを知ったときに愕然とした。慌ててアマゾンの書籍を検索したら、Brain and Nerveの2023年の特集号しかなかった。アメリカのアマゾンで検索してもでてこなかった。なぜだか、最近は専門書ではない方向性でアロスターシスを題材にした書籍が目につくようになった。私がその理論をしったのは、当院で長年やっているニューロフィードバックについての文献検索をしていたときに偶然発見した。Neurofeedback and neural self-regulation: a new perspective based on allostasis という文献で、ニューロフィードバックはアロスタシス機能を向上させる可能性があるという内容である。そこで、アロスタシスという機能が、先を予測して生体の恒常性を維持する機能であり、脳機能が大きく関与しているということを知った。考えてみれば当たり前のことであるが、ホメオスタシス理論に縛られすぎていて、そういう発想がなかった。ヒートショックで多くの人が命を失うのに、サウナで高温-水風呂を繰り返しても大事にならないのはなぜなのか、それもアロスタシス機能と考えれば理解できる。予測していなかった急激な変化には対処できないが、予測の範囲内の急激な変化には対応できるということだろう。ホメオスタシスだけで生体恒常性を維持していくのは効率が悪すぎる。体温が上がってから慌てて調整にはいるより、おそらくこうなるだろうという準備状態にあれば余裕で対処できる。この先を予測する...

「しょうがない、まあいいか」

 不思議な言葉である。実際はしょうがなくないし、まあいいかではすむ話でもない。意味を考えたらおかしな言葉である。ただ、多くの人はその単語をしばしば使う。どういうことなのだろう。これは意味で考えてはいけない単語なのだと思う。人は考え過ぎて病み、考えることをやめられた時に心は回復する。脳のネットワークでいうと、考えるのはセントラルエグゼクティブネットワーク(CEN)を使い、それは答えがでるまで働き続ける。やり過ぎれば脳は疲弊してしまう。そこでセリエンスネットワーク(SN)でブレーキをかけて、デフォルトモードネットワーク(DMN)にエネルギーを移動する。健全なDMNは意識的にではなく、意識下でなんとなく丁度よい状態に収めてくれる。それで心のバランスは修正されるのである。DMNは脳のエネルギーをかなり使っており、DMNがうまく機能していない場合、マインドワンダリングしてしまい、DMNをやすめないと脳は休まらないということになる。発達障害傾向のある人は、DMNがうまく機能していないケースもあるが、ここでは、DMNは健全な脳のバランサーであるという立場で書く。CENの中にはまり込んでしまって、思考がとめられなくなって苦しい時、SNの力でブレーキをかけられた場合、「まあいいか」「しょうがない」という呪文をつかって、DMNの方向にスイッチを切り替えるわけだ。「しょうがなくない」「まあよくない」という「意味」ではなく、その呪文をつかって脳のモードを切り替えているのである。それはできる人には何も抵抗もなく、意識することもなくできることである。なので多くの人はある程度問題が起きても病んでしまうところまでいかない。病んでしまうほど悩むことができないのである。自動的にモード変換されるから。逆にそれができない人には、「しょうがない」「まあいいか」というイメージがわからない。そういう単語を使う習慣が全くない。「しょうがない」という言葉が1番嫌いなんですといって叱られたこともある。その呪文が無意識に口をついて出てくる人は幸いである。元々、柔軟な脳の性質をもって生まれたか、柔軟な環境で育つことができて、環境の影響もあって、そういう脳の習慣を身につけたか、思春期に葛藤状況に陥り、どうにもならなくなった末に、そういう能力を開花したか、何からの事情でそういう能力をみつにつけたわけである。逆に、もと...

開き直るという能力

 「心の受け身」、「思考を停める」という反射レベルの機能の大切さについて強調してきた。言い換えると「諦める」「開き直る」ということだ。これらの言葉は良くない意味で使われることがあるが、私は最も重要な機能であると考えている。学校や部活で「諦めるな、諦めたらそこで終わりだぞ」みたいに叱咤されたことが多いのではないだろうか。裏を返せば、多くの人間は、力を出し切る前に諦めてしまうからだ。一般的には諦める方が楽なのである。こういう時に使われる諦めると、今から言わんとしている諦めるは微妙に違う。もっと重要なことは諦めるというのは、考え方ではなく、脳の機能であるということだ。精神的に病んでしまう人は諦める機能がうまく使えないため、思考を停めることができない。そもそも考えても答えが出ないこと、例えば過去のこと、未来のこと、答えがないことについて考え続けても負のスパイラルに陥っていくだけで、解放されることはない。その苦しみから逃れるためには、強制的に脳機能を停止させるしかない。リストカット、多量服薬、アルコール多飲、その他依存行為などは他の刺激によって強制終了するか、脳を麻痺させる行為である。それ以外に方法がないのであって、その行為をよくないと責めたとて何の意味もないのである。他の方法を提示できない以上、責めることは適切ではないだろう。 諦める、開き直る、思考を停めるという行為にはサリエンスネットワークの機能が重要になると思われる。ニュートラルな状態にキープし、より適切な方向にスイッチを切り替えるわけだ。考えすぎる人は考えない状態に、空想の世界に入ってしまう人は理性的な方向に修正する必要がある。その天秤の中心をなすのがサリエンスネットワークであると思われる。 脳機能は生まれた時から決まっている部分と、生後の学習で変化していく部分があることは誰もが同意するだろう。ただ、どこまでが規定されていて、どこまで変化させうるのかがわからない。私は右利きであるが、それは生来決定されていた。しかし、右手が使えなくなったら必死で練習して左手である程度のことはできるようになることは誰もが理解できる。心の機能はどこまで決まっているのかがわからないわけだ。生来なのか生育過程で決まるのかわからないが、セントラルエグゼクティブネットワーク、デフォルトモードネットワーク、サリエンスネットワークの強度は人に...

脳のネットワークと心の受け身

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 近年の脳研究の進歩は目を見張るものがある。これまで測定できなかったものが測定できるようになったからだ。かつて、脳と言えばペンフィールドのホムンクルスやブロードマンの脳地図に代表されるように、局在論が中心であった。それによって、どの部位を損傷するとどういう機能が喪失されるということが分かる。脳の疾患による影響を考えれば、診断にも治療にもとても重要なものである。 近年の進歩は、より動的なもの、機能的なものがわかるようになり、局在というより部位間のネットワーク機能が解明されつつあることである。病的なことだけでなく、通常の心や脳の営み、ひいては人間の営みを理解するために重要である。心の病気、心の失調を考える場合もとても重要な知見を与えてくれる。何かが壊れているから問題が起こるのではなく、ネットワークがスムーズに連動していないから何かがスムーズにできないというわけだ。 脳研究は日進月歩で、最先端の研究者でないとなかなか全貌を把握することは難しい。しかし、その知見の一部が一臨床家である私にも重要なインスピレーションを与えてくれる。 「人は想像力をこじらせて苦しみを生み出す。考えてもどうしようもないことを考えすぎることで心を病む。自分がやっていることを客観視しにくいので、それ以外の選択肢に至りにくい。」これらの問題を少し修正できれば、心の問題をこじらせることをある程度防げるのではないか。そこに重要な活路があると思う。以前のブログで書いたように、「思考を止める」「心の受け身」それはなんだか抽象的な、あるいは宗教的な話に聞こえるかもしれないが、脳機能に基づく極めて重要な技術であると私は思う。それでは具体的に説明しよう。図に示したように、脳のネットワークはざっくりといえばこのように理解されている。この中でも、執行系ネットワーク(Central Executive Network:CEN セントラルエグゼクティブネットワーク)、基本型ネットワーク(Default Mode Network:DMN デフォルトモードネットワーク)、それと最近より注目されている気づきのネットワーク(Salience Network:SN サリエンスネットワーク)は心のバランすを考える場合にとても重要である。通常、私たちが自分で考えて、目的に到達するように考える場合はCENを使っている。なんとなく、考...

心のダメージ

 「心に降りかかってきた衝撃を分散して、致命傷にならないようにする」それを心の受け身と呼びたい。多くの人は、(程度の差こそあれ)人生の中でとんでもなくひどい目にあったり、恐ろしい思いをしたり、心にダメージを受ける経験をしているだろう。それなのに、時間はかかるにしても、そのダメージから立ち直り、人生を生きている。誰しも赤ん坊の時は無力で、何にもあらがうことができない。幼児になれば、ある程度言葉で訴えることができるが、ただ泣き叫んだり、怒ったりするだけだ。泣きつかれて治まることはあっても、心の中で何か自力で操作して落ち着かせたわけではない。小さければ小さいほど、些細なことでも恐怖や不安の原因になるだろう。赤ん坊はお腹が空いたり、オムツが濡れたりしただけで、火がついたように泣き叫ぶ。泣き叫んで、誰かに何とかしてもらわないと生きていけない。本人は完全に無力なので、100%に近く養育者の努力によって爆発的な心の反応が落ち着くことになる、というより落ち着くまで養育者が何とか保護してくれるわけだ。言葉が使えるようになっても、心はまだまだ未熟なので、養育者が落ち着くまで何度も何度も言い聞かせて、大暴れ状態に付き合ってくれて、心の嵐が静まっていく。小さい時に、心の嵐(不安や恐怖)に根気よく、繰り返し養育者が関わってもらえた人は、本当に幸いである。本人の努力ではないから。たまたま運良く、よい養育者がそばにいてくれたという幸運があったから。心の嵐が収まるというのは、興奮状態(体に力が入った状態)から弛緩(体が脱力した状態)に移行するということだ。 恐怖や不安は体を硬直させる、思い切り力がはいる状態になる。それが力が抜けて脱力するまで付き合ってくれる人がいることで、脱力することを身につけていくのだろう。この脱力できる能力というのが、後の人生に大きな差をもたらすことになる。脱力できるということをもう少し具体的に説明しよう。背もたれのない丸椅子に座っている時と、背もたれがある椅子、あるいはリクライニングチェアに座っているとする。どちらが力が抜けるだろうか。当然背もたれがある、さらに柔らかい背もたれがある方である。つまり脱力するには支えが必要だということだ。その支えも全体重を預けても大丈夫な支えであれば尚よい。よい養育環境にあった人は、何があっても守られるという体感があるため(支えがある...

心の受け身1

 私は高校、大学と柔道をやっていた。柔道を始めると、初めは基礎体力作りと同時に受け身の練習を延々とやらされる。毎日毎日何ヶ月もやる(やらされる)。最初はうまくできないから、頭を畳にぶつけたり、畳を叩く手足が非常に痛かったりして、苦痛を感じる日々が続く。そして、さらに面白くもなんともない技術だ。それを延々とやっていると、いつの日か倒れても頭を畳にぶつけなくなり、倒れても体が痛くなくなってくる。反復練習というものはすごいものである。そういう段階までくると、今度は投げられる練習をするわけだが、それも繰り返し行ううちに、(痛いには痛いが)耐えられないような痛みは感じなくなってくる。受け身の種類は後ろ受け身、前方受け身、横受け身、回転受け身の4種類だけだ。基本的には体が畳に触れる際の衝撃をタイミング良く畳を叩いたり、体や足をつかったりして衝撃を分散するという単純な行為である。タイミングが極めて重要で、一連の動きが流れるように起こることで衝撃が分散され体も頭も守られるというわけだ。攻撃する技術は立ち技60種類以上、寝技30種類以上あるのに対して、受け身は4種、しかも方向が違うだけで基本技術は同じなので、受け身は一種類と言ってもよいだろう。 ここまで柔道の基本的な話に付き合わせてしまったが、ここからが本当に言いたいことである。競技としての柔道は勝敗を決めることが前提なので、勝たなければならない。立ち技、寝技を組み合わせて、何が何でも勝つことを目標とする。試合で受け身は何を意味するだろう。試合で投げられた時に受け身を取ってしまったら、相手の技が決まったことを意味するので、自ら「負けました」と宣言することになる。なので、試合中に投げられても、体を捻って絶対に背中から落ちないように、そして受け身を取らないようにするわけだ。柔道を始めてから気が遠くなるほど繰り返し練習した受け身を勝負の時は使わないとは不思議なことだ。では受け身は何のために練習するのか、それは勝つためではなく、「死なないため」である。死ななければ再び立ち上がって、次の練習に備えられる。何度投げられても大怪我をしたり、命を失ったりしないので、何度でも激しい練習ができる。受け身ができるから(死なないから)思い切った技をかけることができる。「大怪我しない、死なない技術」は何よりも大切なことなのだ。 話が長くなってしまった...