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考え方を変えるのは簡単なのか?

 一般的に人は頭(脳)で生きていると思われている。なので「考えればできる、分かればできる」と思いがちだ。できないのは、「考えが足りないか、分かっていないから」だと思われがちだ。なので、多くの人ができることができない場合、非常につらい思いをすることになる。なぜなら、できないのは、できない人の責任だと思われているからだ。人間は、それほど自由に行動できるのだろうか。脳の深い研究による、人に「自由意志」はあるのか、などという高尚な話ではなく、普通の生活において、行動はそんなに自由に変えられるのだろうか。私はそうは思わない。人はその人の身体機能に強く縛られていると思う。運動神経ならば、悪くてもその人のせいだと思われない。音痴だったり、絵が下手だったりしてもそれほど責められることはない、からかわれることはあっても。そういう能力はそう簡単に自分でコントロールできないことを皆共有しているからだ。しかし、勉強になると、「勉強が足りない、やる気が足りない」と言われて結構つらい目にあう。しかし、内心そういう能力にも限界があり、できない場合は本当にできないのだと分かっているので、ある段階でうやむやになる。それが心の問題になるとどうか。考え方、思い方、感じ方などは人によってそれほど違いがないと勝手に思い込まれている。「考え方が間違っている、そんな風に思うからダメなんだ、そんなこと感じなきゃいいんだよ」などと平気でやりとりされ、それができないと、「頑固だ、神経質だ、完璧主義だ、プライドが高い、変わっている」などと言われ、あたかも悪い事のような感じになる。そうなると、言われた方も、自分はダメなんだと勘違いしやすい。 脳神経の解剖学を考えてみればわかるが、どんな機能を司る細胞もみな同じ形をしており、心の問題だけ簡単に変化させられるはずがないことは明らかだ。脳が何かをする、できるというのは、その機能を行うための神経ネットワークがうまく連動しているということだ。ネットワークがうまく連動していないことがそう簡単にできるはずがない。できないことができるようになるにはどうしたらよいのか。私は右利きなので、右手で字をかいたり、物事を行うのは容易だ。左手では字は書けないし、右手ほど器用に動かせない。そのパターンは私が選んだわけではなく、生まれて時になぜだか決まっていた。ならば左手を使う神経ネットワークは...

身体-反射-認知-思考

我々は考えることに慣れすぎているので、考えて行動しているような錯覚に陥る。一方、条件反射という概念も知っており、意識と別の回路で何らなの身体活動が起こることも分かっている。条件反射として習うのはパブロフの犬的な現象や梅干しをみると唾液がでてくるようなものだと思っている。そういう反応は、普通の生活で使う機能とは別物だと感じている。普通の生活や仕事、コミュケーションで使う機能は、条件反射ではなく思考の産物であると思っているのではないだろうか。「反射は意志で制御できないが、思考は意志で制御できる」なんとなくそう感じているだろう。しかし、我々は、反射と思考の境界、何が制御できなくて何なら制御できるのかの境界線を、真剣に意識して生活していないのではないか。無条件反射、学習された反射、習慣化された行動、思考により変更可能な活動と異なる種類の脳活動が常に混ざり合い、お互いフィードバック仕合ながら活動しているはずだ。ある種の行動が、反射レベルなのか思考の産物か区別しないまま生活しているが、何かがうまく行かないとき冷静に捉える必要がある。どうしてもうまくいかないこと、つい反復してしまうこと、気をつけていても変えられないことは、意志より深いレベル、反射か強く習慣化された機能によって起こっているはずだ。どうして変えられないのだろうという疑問をもつのは当然であるが、それは生物学的機能をなめていると言える。生物学的に深く構築されたネットワークがそう簡単に変更できるはずはないのである。反射レベルで起きていることを思考で制御しようというのは、運動神経が鈍い人が、やり方をしっかり理解したらできなかったことができるということと同じである。運動機能であれば、そんなことができるはずはないことを誰もが共有しているので、運動部に入部すると半年一年と基礎的な訓練をひたすら反復させられる。ある種の行動が反射レベルでできなければ競技には使い物にならないからだ。野球でいえばボールが飛んできて、考えて打つでは間に合わない。認知-反射であって、認知-思考-反射ではないのである。後者では手遅れなのだ。ここで認知と思考も区別しておく必要がある。認知は物事を解釈なく捉えることである。その時の身体機能、反射機能によってすでに決定されていて、その時点で可能なレベルでしか認知できない。それが思考になると、創造や解釈が混ざるので複雑...

生物学的視点3

 想像力とはなんなのか。想像とは現実ではないことを考えることである。それは極めて個人的な体験であり、他者と共有できているとは限らない。そもそも想像のリソースは、過去の体験、経験値、知識である。頭の中にないことは想像できない。宇宙のことを想像する場合も、今までにみた写真や影像、映画、漫画などを頼りに想像しているだけで、本当のことは分かるはずもない。宇宙飛行士になったとて、人間が触れられるのは地球からほんの少し離れたところまでである。銀河の果てのことなどリアルに想像できるはずもない。そういった極めて限局的な能力を用いて、人間関係、社会的役割などに臨んでいるのだら、認識のずれ、勘違い、さらには病的なレベルのエラーが起きても何の不思議もない。そもそも、問題が起きていないことが不思議なことである。普通の人間関係に置いても、テレビなどメディアから流される話を聞いていても、イライラすることが多い。そうじゃないのに反論もしにくい。この場合、正しい方の勝ちではなく、押しが強い方の勝ちになる。健全な人間関係では勝ち負けははっきりせず、「へーそうなんだ-」という感じで流す。同意しているわけではないが、反論することもしない。その後、「あの人はそういう考え方をする人なんだ」と理解し、その後の付き合い方を微調整していくわけだ。相手が同意してくれたとて、「あの人は優しいから聞いてくれた」と思うだけで、自分の言っていることが正しいとは思わない。そんなふんわりした、想像力の海の中をなんとなく漂っているのが健全な関係であるように思う。善悪、正解不正解、勝ち負け、白黒などはっきりしない、お互いの都合と都合が、大きな摩擦を起こさない程度に緩やかな接点をもって、適度に混じり合っているのだろう。そういう関係の中にいるときは居心地はよく、緊張感も少なく、思ったことを思ったように表現する自由がゆるされている、そんな感じなのだろう。 不健全な想像力は、現実との区別がつかないとか、想像が現実だと確信し、想像した世界観を押しつけてくるような感じだろうか。そこには善悪、勝ち負けしかなく、弱い方が屈服して不本意ながら相手に合わせていくしかない。居心地は悪く、緊張感がただよう関係である。さらにやっかいなのは、勝手な想像を押しつけてくる人は、それが現実だと確信しているので、迷いがなく、話し合う余地もない。 そのように想...

生物学的視点2

 人間はおそらく、入力された感覚情報を頼りに考え、行動している。考えと行動の間に、解釈、想像が入り混んでくる。おそらく他の生物は想像という機能が弱いのではないだろうか。霊長類がどの程度人間に似ているのかは勉強不足でわからないが、少なくとも人類ほど複雑なことはしていないだろう。もし想像する機能がたかければ、生活様式は変化していくはずであるが、人間以外の生物はほぼ同じ生活様式を反復していると思われる。 この「想像力」なるものが人間特有であり、心の問題に大きく関与していると考えられる。人間の身近な生き物としてペットが存在しているが、彼らが明日や将来のために何かしているとは思えない。何度怒られても同じことを繰り返す。人間が勝手に感情移入して、少しでも環境を良くしてあげよう、苦痛を取り除いてあげようとするが、野良犬(今はいなくなったが)、野良猫がそれほど不幸だとは思えない。保護される方が嫌かもしれない。でも人間はかわいそうだと思ってしまう(そういう私もかわいそうと思って、何匹も野良猫を保護してきたし、保護された猫はたぶん野良のときより平和で幸せだよねと思ってるが)。彼らはよい生活をしようとか、長生きしようとか、明日のために今日を我慢して何か蓄積しようとかしない。今感じている苦痛からは何らかの方法で逃れようとするが、それは未来のためではない。人間は(人間だけだろう)、将来のために頑張れ、よりよくなるために我慢しろと教育されるが、自分の嫌なことを我慢して行う生き物など人間以外にいないだろう。 「どうして我慢しないのか、どうして努力しないのか、どうして先のことを考えないのか」などと言われることに一般的には何の疑問も感じない。できて当たりまえ、できないのは甘えだ、怠惰だと言われるが、冷静に考えればできる方が不思議なことなのだ。どうしてできないのかより、どうしてできるのだろうの方がまっとうな疑問であることを忘れてはいけない。

生物学的視点1

 我々は人間社会に24時間関わり続け、人間社会の情報だけを得て、人間のルールで考えて生活、行動、思考していることに何の疑問も感じない。問題が起きた時も、人間社会のルール、論理で考え解決しようとする。まあそれは当然と言えば当然である。それで問題が解決できるときはよいのだが、解決できないときにどう考えるかが問題だ。 地球システムがどういうバランスととっているのかは誰にもわからないし、生物多様性といったところで、地球規模の事情はわからない。絶滅危惧種は保護しないといけないなら、未だに恐竜や巨大植物がいる方がよかったというのだろうか。あたかも正しいことのようにみえても、結局は今生きている人間の都合にすぎないわけだ。人間はわがもの顔に存在し、他の生物を管理し保護してあげる存在のように錯覚している。このままでは地球が危ないとかいうが、そんなはずはあるはず無く、いざとなったら地球は人類を排除してシステムを維持するにちがいない。 他の生物のことは全くわからないが(正しく言えば自分以外の生き物がどういう内的体験をしているのかわかるはずもなく)、勝手に想像すると、他の生物と人間の違いは「想像力」の有無ではないだろうか。想像力の危うさを書こうとするときに、想像力を使っているという自己矛盾はご容赦ねがいたい。

逆から考える

 何でいうこと聞けないの。我慢しなさい。甘えるな。頑張れ・・子供から大人まで、いろいろな言葉で叱咤される。された方は、どうしてできないんだろうか、自分の何が悪いのだろうか、どうすればいいのだろうか・・いろいろ考えて、どうしてもうまくいかなければ、自分はダメだ、自分には価値がないなどと悩む。あるいは、自分にプレッシャーをかけてくる人に、怒りや恨みを感じるようになる。 そもそもこの構図にはどういう意味があるのだろう。 すべての人間は生まれた時は完全に無力である。すべてのことを世話してもらわねば生きていけない。お腹がすいたら、おしめが濡れたら、泣く、ひたすら泣く、火がついたように泣く。我慢などしないし、相手の事情など全く考えない。自分の不快感を爆発させて、保護者に何とかしてもらう。それがすべての人間の原点である。 そうすると、大きな疑問がでてくる。文頭に書いたように、「なんでできないの」ではなく「なんでできるようになるの」という不思議さである。それほ人間の正常な発達であると片付ければ終わりなのだが、考えれば考えるほど不思議なことだ。できるのが当たり前ではなく、できないことが当たり前なのである。その後の発達のプロセスは、発達生理学、心理学などで研究されつくしているのだろうが、本当の不思議さは、なにゆえにそのプロセスが進むのかであろう。そのプロセスが全員同じであるはずはなく、著しい個体差があって当然なのであろう。養育者の態度、環境などに原因を求めるのは簡単なことだが、本当に不思議なことであることを忘れない方がよいと思う。想像は巧妙に構築されると事実となり、事実となったら人は疑わなくなるからだ。 「逆から考える」私のモットーであるが、「なぜできないのか、なぜうまくいかないのか」より、「なぜできるのか、なぜうまくいくのか」を問う方がより本質的な問題に向かえるような気がするのである。

心療内科のお話、再起動

 心療内科のお話という題目で、私が日頃感じている、病状、症状に対する考え方を書いてきた。学問的なものやエビデンスがあるものというより、あくまでも私の主観的なイメージを書いてきた。始めたのは大昔で、これまでの間にブログ媒体の事情で継続できなくなったり、知らない間にブログ会社が閉鎖されていて、立ち消えになっていた。当初書いていたものは、データとして保存できたので、それは現在でも読むことができる。コロナの時期に再開したものはいつの間にか亡くなってしまった。 今回、気を取り直して、もう一度、書き始めてみようと思った。クリニックを初めて20年以上が経過したが、その間に医学的進歩も著しく、社会的事情も大きくかわった。ネット環境もものすごく進歩し、HPもとてもスタイリッシュなものがメインになっている。私が始めた頃はまだそんな状況ではなかったので、HPも手作りのままだ。私も当然年をとりなかなか現実の変化についていけないのが正直なところだ。今やAIの発達によって、平均的な情報やいわゆる正しい情報を得るためにはAIを使えば簡単にえることができる。医学的情報も基本的な情報、かなり詳しい情報も得ることができる。 そういった状況であえて、何か情報を発信することに何の意味があるのか。それはいわゆるエビデンスのある正しい情報ではなく、私自身が実際の臨床体験に基づいた印象、思いを書いていくことだと思う。なので医学的標準的情報、エビデンスがある情報などは普通にネットやAIで調べていただきたい。その点はご容赦いただきたい。