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良い我慢と悪い我慢

 昭和の風習では、根性、辛抱、我慢は人間を成長させるために大変重要なことであった。平成初期の映画で、「シコふんじゃった」という相撲映画がある。その中で、すり足稽古を延々とやるときに「辛抱、我慢」と繰り返しながらやっているシーンを覚えている。調べて見ると辛抱と我慢はすでに違う概念であり、辛抱は成長のため、我慢はよくないこと、という風に書かれていた。しかし、デジタル大辞泉で調べたら我慢(辛抱)のようにほぼ同義語のように書かれていたので、ここでは、そこは厳密に分けない概念として使用する。 昭和100年となったが、私が子供の頃は、明治100年、「明治は遠くなりにけり」と言われており、明治時代なんて大昔というイメージだった。なので、今の若い人からみれば、昭和って昭和時代と言われるくらい昔になってしまったんだなと思う。昭和レトロブームとはいっても、昭和っぽい文化は今では馬鹿にされるか嫌悪される対象だろう。我慢しろとかいったらハラスメントだといわれそうだ。話がそれてしまったが、私が言いたいことは、我慢には「良い我慢」と「悪い我慢」があると言うことである。我慢とは自分の心身に負荷をかけるという意味である。前回書いたアロスタティック負荷状態である。それはすべてマイナスかといえばどうではない。今はあまり言われないが、「修行」という行為があるが、それは体に負荷をかけることを意味する。だいたい宗教的な行為において使われることだが、わざわざ滝に打たれたり、火を焚いた近くで読経したり、苦しいことをあえてやっている。それは大変な我慢であるが、なんでそれは良いことなのだろう。それは「自ら望んで、自分を高める(と信じて)」ために行うことだからである。一方、何のためか分からないことをあるいは明らかに自分にとって悪い事を無理強いされるという我慢もある。自ら望んで行うことを「良い我慢」、望まぬ事を強いられて行うことを「悪い我慢」と言えるだろう。良い我慢は自分の可能性を拡張し、次なる困難によりスムーズに対応する力を高めることになる。悪い我慢は自分の自尊心を傷つけ、対処能力をそこなっていくだろう。なので、我慢を感じた時、それが良い我慢か悪い我慢かを見極め、出来ることなら良い我慢に切り替えていければ、その負荷は脳機能の拡張につながっていくだろう。あまりにも理不尽でどう考えてもマイナスにしかならない我慢か...

アロスタシスとホメオスタシス

 心身医学を学ぶときに、最も基礎的な概念として、キャノンのストレス学説、ホメオスタシスを学んだ。心身医学の目標は、ホメオスタシスの改善であると思っていた。キャノンのホメオスタシス理論は1920年頃に提唱された学説であり、長い間ストレスを考える上で中心的な役割をしてきた。私のホームページの心身医学の解説の中にもホメオスタシスのことしか記載していない。ホメオスタシスというのは、ざっくりいうと、生体が内的均衡をたもつために、常に微調整し続けているというものである(血圧、体温、発汗など)。アロスタシス理論は1980年代に提唱されたようだが、私は全くしらなかった。私が心身医学を学び始めたときにはすでに提唱されていたわけだが、教えてもらった覚えはない。私がその理論を知ったのは半年くらい前のことで、それを知ったときに愕然とした。慌ててアマゾンの書籍を検索したら、Brain and Nerveの2023年の特集号しかなかった。アメリカのアマゾンで検索してもでてこなかった。なぜだか、最近は専門書ではない方向性でアロスターシスを題材にした書籍が目につくようになった。私がその理論をしったのは、当院で長年やっているニューロフィードバックについての文献検索をしていたときに偶然発見した。Neurofeedback and neural self-regulation: a new perspective based on allostasis という文献で、ニューロフィードバックはアロスタシス機能を向上させる可能性があるという内容である。そこで、アロスタシスという機能が、先を予測して生体の恒常性を維持する機能であり、脳機能が大きく関与しているということを知った。考えてみれば当たり前のことであるが、ホメオスタシス理論に縛られすぎていて、そういう発想がなかった。ヒートショックで多くの人が命を失うのに、サウナで高温-水風呂を繰り返しても大事にならないのはなぜなのか、それもアロスタシス機能と考えれば理解できる。予測していなかった急激な変化には対処できないが、予測の範囲内の急激な変化には対応できるということだろう。ホメオスタシスだけで生体恒常性を維持していくのは効率が悪すぎる。体温が上がってから慌てて調整にはいるより、おそらくこうなるだろうという準備状態にあれば余裕で対処できる。この先を予測する...

「しょうがない、まあいいか」

 不思議な言葉である。実際はしょうがなくないし、まあいいかではすむ話でもない。意味を考えたらおかしな言葉である。ただ、多くの人はその単語をしばしば使う。どういうことなのだろう。これは意味で考えてはいけない単語なのだと思う。人は考え過ぎて病み、考えることをやめられた時に心は回復する。脳のネットワークでいうと、考えるのはセントラルエグゼクティブネットワーク(CEN)を使い、それは答えがでるまで働き続ける。やり過ぎれば脳は疲弊してしまう。そこでセリエンスネットワーク(SN)でブレーキをかけて、デフォルトモードネットワーク(DMN)にエネルギーを移動する。健全なDMNは意識的にではなく、意識下でなんとなく丁度よい状態に収めてくれる。それで心のバランスは修正されるのである。DMNは脳のエネルギーをかなり使っており、DMNがうまく機能していない場合、マインドワンダリングしてしまい、DMNをやすめないと脳は休まらないということになる。発達障害傾向のある人は、DMNがうまく機能していないケースもあるが、ここでは、DMNは健全な脳のバランサーであるという立場で書く。CENの中にはまり込んでしまって、思考がとめられなくなって苦しい時、SNの力でブレーキをかけられた場合、「まあいいか」「しょうがない」という呪文をつかって、DMNの方向にスイッチを切り替えるわけだ。「しょうがなくない」「まあよくない」という「意味」ではなく、その呪文をつかって脳のモードを切り替えているのである。それはできる人には何も抵抗もなく、意識することもなくできることである。なので多くの人はある程度問題が起きても病んでしまうところまでいかない。病んでしまうほど悩むことができないのである。自動的にモード変換されるから。逆にそれができない人には、「しょうがない」「まあいいか」というイメージがわからない。そういう単語を使う習慣が全くない。「しょうがない」という言葉が1番嫌いなんですといって叱られたこともある。その呪文が無意識に口をついて出てくる人は幸いである。元々、柔軟な脳の性質をもって生まれたか、柔軟な環境で育つことができて、環境の影響もあって、そういう脳の習慣を身につけたか、思春期に葛藤状況に陥り、どうにもならなくなった末に、そういう能力を開花したか、何からの事情でそういう能力をみつにつけたわけである。逆に、もと...

開き直るという能力

 「心の受け身」、「思考を停める」という反射レベルの機能の大切さについて強調してきた。言い換えると「諦める」「開き直る」ということだ。これらの言葉は良くない意味で使われることがあるが、私は最も重要な機能であると考えている。学校や部活で「諦めるな、諦めたらそこで終わりだぞ」みたいに叱咤されたことが多いのではないだろうか。裏を返せば、多くの人間は、力を出し切る前に諦めてしまうからだ。一般的には諦める方が楽なのである。こういう時に使われる諦めると、今から言わんとしている諦めるは微妙に違う。もっと重要なことは諦めるというのは、考え方ではなく、脳の機能であるということだ。精神的に病んでしまう人は諦める機能がうまく使えないため、思考を停めることができない。そもそも考えても答えが出ないこと、例えば過去のこと、未来のこと、答えがないことについて考え続けても負のスパイラルに陥っていくだけで、解放されることはない。その苦しみから逃れるためには、強制的に脳機能を停止させるしかない。リストカット、多量服薬、アルコール多飲、その他依存行為などは他の刺激によって強制終了するか、脳を麻痺させる行為である。それ以外に方法がないのであって、その行為をよくないと責めたとて何の意味もないのである。他の方法を提示できない以上、責めることは適切ではないだろう。 諦める、開き直る、思考を停めるという行為にはサリエンスネットワークの機能が重要になると思われる。ニュートラルな状態にキープし、より適切な方向にスイッチを切り替えるわけだ。考えすぎる人は考えない状態に、空想の世界に入ってしまう人は理性的な方向に修正する必要がある。その天秤の中心をなすのがサリエンスネットワークであると思われる。 脳機能は生まれた時から決まっている部分と、生後の学習で変化していく部分があることは誰もが同意するだろう。ただ、どこまでが規定されていて、どこまで変化させうるのかがわからない。私は右利きであるが、それは生来決定されていた。しかし、右手が使えなくなったら必死で練習して左手である程度のことはできるようになることは誰もが理解できる。心の機能はどこまで決まっているのかがわからないわけだ。生来なのか生育過程で決まるのかわからないが、セントラルエグゼクティブネットワーク、デフォルトモードネットワーク、サリエンスネットワークの強度は人に...

脳のネットワークと心の受け身

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 近年の脳研究の進歩は目を見張るものがある。これまで測定できなかったものが測定できるようになったからだ。かつて、脳と言えばペンフィールドのホムンクルスやブロードマンの脳地図に代表されるように、局在論が中心であった。それによって、どの部位を損傷するとどういう機能が喪失されるということが分かる。脳の疾患による影響を考えれば、診断にも治療にもとても重要なものである。 近年の進歩は、より動的なもの、機能的なものがわかるようになり、局在というより部位間のネットワーク機能が解明されつつあることである。病的なことだけでなく、通常の心や脳の営み、ひいては人間の営みを理解するために重要である。心の病気、心の失調を考える場合もとても重要な知見を与えてくれる。何かが壊れているから問題が起こるのではなく、ネットワークがスムーズに連動していないから何かがスムーズにできないというわけだ。 脳研究は日進月歩で、最先端の研究者でないとなかなか全貌を把握することは難しい。しかし、その知見の一部が一臨床家である私にも重要なインスピレーションを与えてくれる。 「人は想像力をこじらせて苦しみを生み出す。考えてもどうしようもないことを考えすぎることで心を病む。自分がやっていることを客観視しにくいので、それ以外の選択肢に至りにくい。」これらの問題を少し修正できれば、心の問題をこじらせることをある程度防げるのではないか。そこに重要な活路があると思う。以前のブログで書いたように、「思考を止める」「心の受け身」それはなんだか抽象的な、あるいは宗教的な話に聞こえるかもしれないが、脳機能に基づく極めて重要な技術であると私は思う。それでは具体的に説明しよう。図に示したように、脳のネットワークはざっくりといえばこのように理解されている。この中でも、執行系ネットワーク(Central Executive Network:CEN セントラルエグゼクティブネットワーク)、基本型ネットワーク(Default Mode Network:DMN デフォルトモードネットワーク)、それと最近より注目されている気づきのネットワーク(Salience Network:SN サリエンスネットワーク)は心のバランすを考える場合にとても重要である。通常、私たちが自分で考えて、目的に到達するように考える場合はCENを使っている。なんとなく、考...

心のダメージ

 「心に降りかかってきた衝撃を分散して、致命傷にならないようにする」それを心の受け身と呼びたい。多くの人は、(程度の差こそあれ)人生の中でとんでもなくひどい目にあったり、恐ろしい思いをしたり、心にダメージを受ける経験をしているだろう。それなのに、時間はかかるにしても、そのダメージから立ち直り、人生を生きている。誰しも赤ん坊の時は無力で、何にもあらがうことができない。幼児になれば、ある程度言葉で訴えることができるが、ただ泣き叫んだり、怒ったりするだけだ。泣きつかれて治まることはあっても、心の中で何か自力で操作して落ち着かせたわけではない。小さければ小さいほど、些細なことでも恐怖や不安の原因になるだろう。赤ん坊はお腹が空いたり、オムツが濡れたりしただけで、火がついたように泣き叫ぶ。泣き叫んで、誰かに何とかしてもらわないと生きていけない。本人は完全に無力なので、100%に近く養育者の努力によって爆発的な心の反応が落ち着くことになる、というより落ち着くまで養育者が何とか保護してくれるわけだ。言葉が使えるようになっても、心はまだまだ未熟なので、養育者が落ち着くまで何度も何度も言い聞かせて、大暴れ状態に付き合ってくれて、心の嵐が静まっていく。小さい時に、心の嵐(不安や恐怖)に根気よく、繰り返し養育者が関わってもらえた人は、本当に幸いである。本人の努力ではないから。たまたま運良く、よい養育者がそばにいてくれたという幸運があったから。心の嵐が収まるというのは、興奮状態(体に力が入った状態)から弛緩(体が脱力した状態)に移行するということだ。 恐怖や不安は体を硬直させる、思い切り力がはいる状態になる。それが力が抜けて脱力するまで付き合ってくれる人がいることで、脱力することを身につけていくのだろう。この脱力できる能力というのが、後の人生に大きな差をもたらすことになる。脱力できるということをもう少し具体的に説明しよう。背もたれのない丸椅子に座っている時と、背もたれがある椅子、あるいはリクライニングチェアに座っているとする。どちらが力が抜けるだろうか。当然背もたれがある、さらに柔らかい背もたれがある方である。つまり脱力するには支えが必要だということだ。その支えも全体重を預けても大丈夫な支えであれば尚よい。よい養育環境にあった人は、何があっても守られるという体感があるため(支えがある...

心の受け身1

 私は高校、大学と柔道をやっていた。柔道を始めると、初めは基礎体力作りと同時に受け身の練習を延々とやらされる。毎日毎日何ヶ月もやる(やらされる)。最初はうまくできないから、頭を畳にぶつけたり、畳を叩く手足が非常に痛かったりして、苦痛を感じる日々が続く。そして、さらに面白くもなんともない技術だ。それを延々とやっていると、いつの日か倒れても頭を畳にぶつけなくなり、倒れても体が痛くなくなってくる。反復練習というものはすごいものである。そういう段階までくると、今度は投げられる練習をするわけだが、それも繰り返し行ううちに、(痛いには痛いが)耐えられないような痛みは感じなくなってくる。受け身の種類は後ろ受け身、前方受け身、横受け身、回転受け身の4種類だけだ。基本的には体が畳に触れる際の衝撃をタイミング良く畳を叩いたり、体や足をつかったりして衝撃を分散するという単純な行為である。タイミングが極めて重要で、一連の動きが流れるように起こることで衝撃が分散され体も頭も守られるというわけだ。攻撃する技術は立ち技60種類以上、寝技30種類以上あるのに対して、受け身は4種、しかも方向が違うだけで基本技術は同じなので、受け身は一種類と言ってもよいだろう。 ここまで柔道の基本的な話に付き合わせてしまったが、ここからが本当に言いたいことである。競技としての柔道は勝敗を決めることが前提なので、勝たなければならない。立ち技、寝技を組み合わせて、何が何でも勝つことを目標とする。試合で受け身は何を意味するだろう。試合で投げられた時に受け身を取ってしまったら、相手の技が決まったことを意味するので、自ら「負けました」と宣言することになる。なので、試合中に投げられても、体を捻って絶対に背中から落ちないように、そして受け身を取らないようにするわけだ。柔道を始めてから気が遠くなるほど繰り返し練習した受け身を勝負の時は使わないとは不思議なことだ。では受け身は何のために練習するのか、それは勝つためではなく、「死なないため」である。死ななければ再び立ち上がって、次の練習に備えられる。何度投げられても大怪我をしたり、命を失ったりしないので、何度でも激しい練習ができる。受け身ができるから(死なないから)思い切った技をかけることができる。「大怪我しない、死なない技術」は何よりも大切なことなのだ。 話が長くなってしまった...

考え方を変えるのは簡単なのか?

 一般的に人は頭(脳)で生きていると思われている。なので「考えればできる、分かればできる」と思いがちだ。できないのは、「考えが足りないか、分かっていないから」だと思われがちだ。なので、多くの人ができることができない場合、非常につらい思いをすることになる。なぜなら、できないのは、できない人の責任だと思われているからだ。人間は、それほど自由に行動できるのだろうか。脳の深い研究による、人に「自由意志」はあるのか、などという高尚な話ではなく、普通の生活において、行動はそんなに自由に変えられるのだろうか。私はそうは思わない。人はその人の身体機能に強く縛られていると思う。運動神経ならば、悪くてもその人のせいだと思われない。音痴だったり、絵が下手だったりしてもそれほど責められることはない、からかわれることはあっても。そういう能力はそう簡単に自分でコントロールできないことを皆共有しているからだ。しかし、勉強になると、「勉強が足りない、やる気が足りない」と言われて結構つらい目にあう。しかし、内心そういう能力にも限界があり、できない場合は本当にできないのだと分かっているので、ある段階でうやむやになる。それが心の問題になるとどうか。考え方、思い方、感じ方などは人によってそれほど違いがないと勝手に思い込まれている。「考え方が間違っている、そんな風に思うからダメなんだ、そんなこと感じなきゃいいんだよ」などと平気でやりとりされ、それができないと、「頑固だ、神経質だ、完璧主義だ、プライドが高い、変わっている」などと言われ、あたかも悪い事のような感じになる。そうなると、言われた方も、自分はダメなんだと勘違いしやすい。 脳神経の解剖学を考えてみればわかるが、どんな機能を司る細胞もみな同じ形をしており、心の問題だけ簡単に変化させられるはずがないことは明らかだ。脳が何かをする、できるというのは、その機能を行うための神経ネットワークがうまく連動しているということだ。ネットワークがうまく連動していないことがそう簡単にできるはずがない。できないことができるようになるにはどうしたらよいのか。私は右利きなので、右手で字をかいたり、物事を行うのは容易だ。左手では字は書けないし、右手ほど器用に動かせない。そのパターンは私が選んだわけではなく、生まれて時になぜだか決まっていた。ならば左手を使う神経ネットワークは...

身体-反射-認知-思考

我々は考えることに慣れすぎているので、考えて行動しているような錯覚に陥る。一方、条件反射という概念も知っており、意識と別の回路で何らなの身体活動が起こることも分かっている。条件反射として習うのはパブロフの犬的な現象や梅干しをみると唾液がでてくるようなものだと思っている。そういう反応は、普通の生活で使う機能とは別物だと感じている。普通の生活や仕事、コミュケーションで使う機能は、条件反射ではなく思考の産物であると思っているのではないだろうか。「反射は意志で制御できないが、思考は意志で制御できる」なんとなくそう感じているだろう。しかし、我々は、反射と思考の境界、何が制御できなくて何なら制御できるのかの境界線を、真剣に意識して生活していないのではないか。無条件反射、学習された反射、習慣化された行動、思考により変更可能な活動と異なる種類の脳活動が常に混ざり合い、お互いフィードバック仕合ながら活動しているはずだ。ある種の行動が、反射レベルなのか思考の産物か区別しないまま生活しているが、何かがうまく行かないとき冷静に捉える必要がある。どうしてもうまくいかないこと、つい反復してしまうこと、気をつけていても変えられないことは、意志より深いレベル、反射か強く習慣化された機能によって起こっているはずだ。どうして変えられないのだろうという疑問をもつのは当然であるが、それは生物学的機能をなめていると言える。生物学的に深く構築されたネットワークがそう簡単に変更できるはずはないのである。反射レベルで起きていることを思考で制御しようというのは、運動神経が鈍い人が、やり方をしっかり理解したらできなかったことができるということと同じである。運動機能であれば、そんなことができるはずはないことを誰もが共有しているので、運動部に入部すると半年一年と基礎的な訓練をひたすら反復させられる。ある種の行動が反射レベルでできなければ競技には使い物にならないからだ。野球でいえばボールが飛んできて、考えて打つでは間に合わない。認知-反射であって、認知-思考-反射ではないのである。後者では手遅れなのだ。ここで認知と思考も区別しておく必要がある。認知は物事を解釈なく捉えることである。その時の身体機能、反射機能によってすでに決定されていて、その時点で可能なレベルでしか認知できない。それが思考になると、創造や解釈が混ざるので複雑...

生物学的視点3

 想像力とはなんなのか。想像とは現実ではないことを考えることである。それは極めて個人的な体験であり、他者と共有できているとは限らない。そもそも想像のリソースは、過去の体験、経験値、知識である。頭の中にないことは想像できない。宇宙のことを想像する場合も、今までにみた写真や影像、映画、漫画などを頼りに想像しているだけで、本当のことは分かるはずもない。宇宙飛行士になったとて、人間が触れられるのは地球からほんの少し離れたところまでである。銀河の果てのことなどリアルに想像できるはずもない。そういった極めて限局的な能力を用いて、人間関係、社会的役割などに臨んでいるのだら、認識のずれ、勘違い、さらには病的なレベルのエラーが起きても何の不思議もない。そもそも、問題が起きていないことが不思議なことである。普通の人間関係に置いても、テレビなどメディアから流される話を聞いていても、イライラすることが多い。そうじゃないのに反論もしにくい。この場合、正しい方の勝ちではなく、押しが強い方の勝ちになる。健全な人間関係では勝ち負けははっきりせず、「へーそうなんだ-」という感じで流す。同意しているわけではないが、反論することもしない。その後、「あの人はそういう考え方をする人なんだ」と理解し、その後の付き合い方を微調整していくわけだ。相手が同意してくれたとて、「あの人は優しいから聞いてくれた」と思うだけで、自分の言っていることが正しいとは思わない。そんなふんわりした、想像力の海の中をなんとなく漂っているのが健全な関係であるように思う。善悪、正解不正解、勝ち負け、白黒などはっきりしない、お互いの都合と都合が、大きな摩擦を起こさない程度に緩やかな接点をもって、適度に混じり合っているのだろう。そういう関係の中にいるときは居心地はよく、緊張感も少なく、思ったことを思ったように表現する自由がゆるされている、そんな感じなのだろう。 不健全な想像力は、現実との区別がつかないとか、想像が現実だと確信し、想像した世界観を押しつけてくるような感じだろうか。そこには善悪、勝ち負けしかなく、弱い方が屈服して不本意ながら相手に合わせていくしかない。居心地は悪く、緊張感がただよう関係である。さらにやっかいなのは、勝手な想像を押しつけてくる人は、それが現実だと確信しているので、迷いがなく、話し合う余地もない。 そのように想...

生物学的視点2

 人間はおそらく、入力された感覚情報を頼りに考え、行動している。考えと行動の間に、解釈、想像が入り混んでくる。おそらく他の生物は想像という機能が弱いのではないだろうか。霊長類がどの程度人間に似ているのかは勉強不足でわからないが、少なくとも人類ほど複雑なことはしていないだろう。もし想像する機能がたかければ、生活様式は変化していくはずであるが、人間以外の生物はほぼ同じ生活様式を反復していると思われる。 この「想像力」なるものが人間特有であり、心の問題に大きく関与していると考えられる。人間の身近な生き物としてペットが存在しているが、彼らが明日や将来のために何かしているとは思えない。何度怒られても同じことを繰り返す。人間が勝手に感情移入して、少しでも環境を良くしてあげよう、苦痛を取り除いてあげようとするが、野良犬(今はいなくなったが)、野良猫がそれほど不幸だとは思えない。保護される方が嫌かもしれない。でも人間はかわいそうだと思ってしまう(そういう私もかわいそうと思って、何匹も野良猫を保護してきたし、保護された猫はたぶん野良のときより平和で幸せだよねと思ってるが)。彼らはよい生活をしようとか、長生きしようとか、明日のために今日を我慢して何か蓄積しようとかしない。今感じている苦痛からは何らかの方法で逃れようとするが、それは未来のためではない。人間は(人間だけだろう)、将来のために頑張れ、よりよくなるために我慢しろと教育されるが、自分の嫌なことを我慢して行う生き物など人間以外にいないだろう。 「どうして我慢しないのか、どうして努力しないのか、どうして先のことを考えないのか」などと言われることに一般的には何の疑問も感じない。できて当たりまえ、できないのは甘えだ、怠惰だと言われるが、冷静に考えればできる方が不思議なことなのだ。どうしてできないのかより、どうしてできるのだろうの方がまっとうな疑問であることを忘れてはいけない。

生物学的視点1

 我々は人間社会に24時間関わり続け、人間社会の情報だけを得て、人間のルールで考えて生活、行動、思考していることに何の疑問も感じない。問題が起きた時も、人間社会のルール、論理で考え解決しようとする。まあそれは当然と言えば当然である。それで問題が解決できるときはよいのだが、解決できないときにどう考えるかが問題だ。 地球システムがどういうバランスととっているのかは誰にもわからないし、生物多様性といったところで、地球規模の事情はわからない。絶滅危惧種は保護しないといけないなら、未だに恐竜や巨大植物がいる方がよかったというのだろうか。あたかも正しいことのようにみえても、結局は今生きている人間の都合にすぎないわけだ。人間はわがもの顔に存在し、他の生物を管理し保護してあげる存在のように錯覚している。このままでは地球が危ないとかいうが、そんなはずはあるはず無く、いざとなったら地球は人類を排除してシステムを維持するにちがいない。 他の生物のことは全くわからないが(正しく言えば自分以外の生き物がどういう内的体験をしているのかわかるはずもなく)、勝手に想像すると、他の生物と人間の違いは「想像力」の有無ではないだろうか。想像力の危うさを書こうとするときに、想像力を使っているという自己矛盾はご容赦ねがいたい。

逆から考える

 何でいうこと聞けないの。我慢しなさい。甘えるな。頑張れ・・子供から大人まで、いろいろな言葉で叱咤される。された方は、どうしてできないんだろうか、自分の何が悪いのだろうか、どうすればいいのだろうか・・いろいろ考えて、どうしてもうまくいかなければ、自分はダメだ、自分には価値がないなどと悩む。あるいは、自分にプレッシャーをかけてくる人に、怒りや恨みを感じるようになる。 そもそもこの構図にはどういう意味があるのだろう。 すべての人間は生まれた時は完全に無力である。すべてのことを世話してもらわねば生きていけない。お腹がすいたら、おしめが濡れたら、泣く、ひたすら泣く、火がついたように泣く。我慢などしないし、相手の事情など全く考えない。自分の不快感を爆発させて、保護者に何とかしてもらう。それがすべての人間の原点である。 そうすると、大きな疑問がでてくる。文頭に書いたように、「なんでできないの」ではなく「なんでできるようになるの」という不思議さである。それほ人間の正常な発達であると片付ければ終わりなのだが、考えれば考えるほど不思議なことだ。できるのが当たり前ではなく、できないことが当たり前なのである。その後の発達のプロセスは、発達生理学、心理学などで研究されつくしているのだろうが、本当の不思議さは、なにゆえにそのプロセスが進むのかであろう。そのプロセスが全員同じであるはずはなく、著しい個体差があって当然なのであろう。養育者の態度、環境などに原因を求めるのは簡単なことだが、本当に不思議なことであることを忘れない方がよいと思う。想像は巧妙に構築されると事実となり、事実となったら人は疑わなくなるからだ。 「逆から考える」私のモットーであるが、「なぜできないのか、なぜうまくいかないのか」より、「なぜできるのか、なぜうまくいくのか」を問う方がより本質的な問題に向かえるような気がするのである。

心療内科のお話、再起動

 心療内科のお話という題目で、私が日頃感じている、病状、症状に対する考え方を書いてきた。学問的なものやエビデンスがあるものというより、あくまでも私の主観的なイメージを書いてきた。始めたのは大昔で、これまでの間にブログ媒体の事情で継続できなくなったり、知らない間にブログ会社が閉鎖されていて、立ち消えになっていた。当初書いていたものは、データとして保存できたので、それは現在でも読むことができる。コロナの時期に再開したものはいつの間にか亡くなってしまった。 今回、気を取り直して、もう一度、書き始めてみようと思った。クリニックを初めて20年以上が経過したが、その間に医学的進歩も著しく、社会的事情も大きくかわった。ネット環境もものすごく進歩し、HPもとてもスタイリッシュなものがメインになっている。私が始めた頃はまだそんな状況ではなかったので、HPも手作りのままだ。私も当然年をとりなかなか現実の変化についていけないのが正直なところだ。今やAIの発達によって、平均的な情報やいわゆる正しい情報を得るためにはAIを使えば簡単にえることができる。医学的情報も基本的な情報、かなり詳しい情報も得ることができる。 そういった状況であえて、何か情報を発信することに何の意味があるのか。それはいわゆるエビデンスのある正しい情報ではなく、私自身が実際の臨床体験に基づいた印象、思いを書いていくことだと思う。なので医学的標準的情報、エビデンスがある情報などは普通にネットやAIで調べていただきたい。その点はご容赦いただきたい。